葬式仏教について
葬式仏教について
日本では、『涅槃経』にある入滅が近い釈尊と愛弟子アーナンダとのやりとりから、「仏弟子は葬儀などせずに修行に励め」というのが本来の教えであると理解され、葬式仏教は教えに反するかのように非難されてきました。
この「葬儀」と和訳された言語は「シャリーラプージャー」といいます。この言語を葬儀と訳すことについて、日本で仏教に帰依されたインド人禅僧の釈菩提師に尋ねました。
師曰く、「シャリは舎利、お釈迦さまの骨のことです。シャリーラプージャーは、お釈迦さまの骨をストウーパに納めること、葬儀のことではありません」とはっきり言われました。まさに、鈴木隆泰先生が『葬式仏教正統論』の中で述べられているとおりの答えです。
さらには、四姓制度の下に不可触民という階級まで生まれてしまったインド社会では、真の平等を説く仏教に改宗する人が増えていて、仏教徒が亡くなれば、僧侶に読経を依頼し荼毘にふされるとも教えてくれました。
死は忌避すべきものだった
わが国では、古来より、人の死はもっとも重い穢れとされました。朝廷に管理される身分であった僧侶は、穢れは避けなければならず、人の死に近づくことを禁じられました。したがって、この頃は、僧侶仲間や皇室や貴族など、ごく一部の葬儀を行なっていただけのようです。
死別に寄り添った僧侶
鎌倉時代になると、官僧の立場を捨て、庶民の死に寄り添う僧侶が現れます。
「取り立てていうべくもない僧侶が日吉神社に百日参拝の願を掛けたが、八十日目の参拝の帰り道、亡くなった母の葬送が出来ず泣いている独りの娘に出会った。哀れに思って葬送をしてやった後で、次の日の暁に穢れを憚りつつ外から日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて讃えた」というような話が見られるようになるのです。
葬式仏教は、釈尊の教えに反するものではなく、日本人僧侶が慈悲の思いとともに、死別に寄りそってきた姿なのです。
現代の仏教者はその原点を忘れずに、誠実に死別の場面に関わっていくことが大切な役目であると思います。